まだ、これから
スタートラインに立つためにやってきた事
だから、まだスタートラインに立っただけの事
まだ、これから世界は広がっていく
苦痛、痛み、挫折、絶望と
それでも尚、もっと高みを求めて歩んでいく
まだ、これから見るべき良きもの
まだ、これから手に入れるべきもの
まだ、これからが本当の人生がはじまるとき
時には気を抜いても良いけれども
ただ、前を見つめて
最善を期待して
乗り越えていくのだ
まだ、これから何かを遺していくために
より高みを目指して、歩みはゆっくりであっても
自分が求める場所を見つめて
それぞれに正義があるから
何せ、命がけなのだから。
だから、手を抜いたら負けるし、例えば相手を瀕死の状態にまでしても
回復をしてしまう余地を残しては、また後々に争いになる
だから、正義を盾にするのであれば、その正義を持って全力で敬意を持って
戦い尽くさなければならないのです
相手が絶命するまで、手を抜いてはならない
相手も命がけで戦うのであるから、それぞれの正義があるのであれば、
それが争いに発展する事があるのであれば、その際には手を抜いてはならないし
また、絶対的に勝つまで、戦いを辞めてはならないのである
どちらにも正義があるからこそ、敬意を払い、相手が二度と立ち向かってこないよう
絶対的に勝つまで、手を抜いてはならないのである
また、それが正義を盾にした際の、最大の相手に対する敬意の表し方なのである
もっと素朴な事のような気がした
ただ、幼い頃のように、その人とただ一緒にいたりしたいのだと。
それが嬉しい事で、楽しい事で、安心をする事だったりするのだと感じた。
それはとっても小さな事だけれど、それは個人としては人生そのもので
それはとても大きな事なんだよね
ただ、いつかのそれを守れる自分でいたいから
だから、いま生き抜く鍛錬を繰り返して
そして、少しづつ強く、強く、しなやかになっていく事に懸命になっている
多分そういう事なのだと・・・
なんとなく、そのような気がした
落ち着いて心を揺らさないで
静かな時間の中で
静寂の中で物事をただ見つめること
それが重要なときが必ずある
心が揺れることもときには大切だけれども
物事を遂行するときには心を揺らしてはならない
ただ、目的に向かって淡々と行動をするだけのこと
力を入れずに見つめて
やるべき事をただ淡々と遂行をしていく事
それが長い期間行動していく中で最も大切な事
自分で自分を疲弊させるような考え方は全て排除して
静寂の中で揺れない心を持って物事に当たる事
今がら辛いなら 考えるという行為を一時やめよう
未来を今味わう事が出来るわけではないのにも関わらず、人間の常として未来を勝手に悲観して、あたかも既に未来があるかのように振る舞っている事を実感するのに随分時間がかかるものです。
でも、それは冷静なときにはよく理解が出来るものです。
いま現在、この瞬間の自分が3年後の未来の中にいるわけではありません。
なのに、そのこの瞬間に悲観的に考えた未来があたかもやってくるように振る舞って、その結果を手に入れてしまうのです。
でも、どのような状況を作るのも結局は自分であるという事を認識しなければなりません。
それを認識した上で全ての事を考えるのをやめてしまうのです。
考えないで、ただその日を生きてみるのです。目標を持つ、とかそんな事自体は置いておいて、その日を生きてみるのです。
案外と生きていける事に気が付くはずです。
もっと言えば、よく何かを考えていたときと、何も考えずに生きているつもりの瞬間と実際にやっている事はあまり変わらず、自分の心がそれをどう感じるかという事に変化があるだけという事にも気が付くのではないかと思います。
気が付くというより実感をするのでしょうか。
そもそも、生物は良くない状況に自ら陥っていくというような事は「本能」というプログラムの中には入っていません。本能は、そもそもは根源的に「自分を気持ちよくする」という単純なプログラムによって動いています。
その本能を超えて意味をつけて、違う反応をつける事が出来るからこそ人間の脳は素晴らしいものですが、使い方を間違えると、その人の現実は辛いものになってしまいます。
昨今の書籍などの内容では、じゃあ断捨離をしなさい、感謝をしなさい、など意味づけをする事によって解消を促します。
でも、それも限界なのではないかと感じます。そもそも、脳が作ってしまった現実の上から、さらに新しい概念を上書きをするという事をするわけですから、そもそも無理があるのです。
少なくとも脳の回路が変わるまでに3年くらいの期間を持ちたいものです。
よく見受けられるのが、「感謝をしなければならない」という強迫観念の元、また、それが素晴らしい事であって、私はそれをしているのに、感謝をしていないあなたは、おかしい」と無用に争いを起こす人々まで出現するありさまです。
この場合は論者が良くないわけではなく、受け取った側の問題であると思いますが、本末転倒です。
だから考える事をやめて、その日だけをまず生きてみるだけにしたらどうでしょうか?と言いたいわけです。
考えない、意味をつけない、という事だけに意識を向けて、ただ生きてみるわけです。
人間の行動プログラムは案外と精巧に出来ていて、何を考えていなくても、より良い生活を勝手に求めますから、勝ってにより良い方向へと向かっていきます。
寒ければ毛布と持ってくるでしょう?
たった、それだけの事です。意味をつけるから快適さを手にする前に、「それは不可能」と勝ってに自分で現実をつけるだけであるという事なのです。
だから、考える事はやめてしまって、ただ自然に自分の本能と生命のプログラムを信頼して任せてみるという事をしてみても良いのではないでしょうか?
なにせ、あなたが考えて良い結果ではなかったのですから。
そもそも、備わっている生命のプログラムを信頼して任せて生きてみるという事をしたら如何でしょうか?
心を揺らさない事
どちらが良いという事ではなく、要はバランスの問題で事を起こす発端をしては心が振動をしていた方が良いわけです。
けれども、その発端になった事をしはじめた際には、毎日毎日同じ事を繰り返して行わなければなりません。
楽しい、楽しくない、怖い、怖くない、嬉しい、嬉しくないという感情をわざわざ自分で引き起こしてはなりません。
人間は暇になってくるとすぐに心を揺らそうとします。違う振動を求めるのか、心の揺らぎを求めるのか、それはいづれでもかまいませんが、人間はネガティブな作用の方がよりイージーに感じられるという事を知っていますから、心が動く、感情的になるという事を暇つぶしに利用します。
それが、怒り、苦しみ、というものになります。本当はそんな事を感じる必要などないのに、無意識に周囲のあらさがしをじはじめるのです。それを、見て苛立つ、悲しい、苦しいというような感情を持つわけです。
それは、僕も同様ですから、その動きの仕組みをい自分自身が理解をして体系的に概念として知識として吸収をしている今、心の動きにあまり意味をつけてならないという事を感じています。
何かを成し遂げようとしている際に、あまりそれ自体に意味をつけようとしてはいけません。
よく毎日の小さな幸せを見つけようという人がいます。それはそれで素晴らしい事ですし、良い事を発見していく習慣は大切なものです。しかしながら、それを感じるためにそれを見つけようとして逆に、見つからない自分に対して、それが嬉しいとか悲しいとか、幸せだという事を感じられない自分に対して、「自分はなんてダメなのだ」と思うくらいであれば、そもそも、やはり勝手ネガティブになっているのです。
だから、感情を動かすという事をやめてしまい、目の前のやるべき事をやっていくだけで良いのです。
そもそも、物事の方向性を決めていくのは言葉自体、企画書に書かれた言葉自体なのです。
仕事としてそれを淡々と遂行をしていくという事がときには必要です。全てのことに感情的になっているのは、あまりに消耗が激しく、それ自体が生み出す作用はあまり効率的ではありませんし、自分が成し遂げたいことにとって本当に必要なのか?と考えた際に必ずしも嬉しい、悲しい、幸せという感情はいらないという事に気がつかなければなりません。
どういう事かというと、サービスなどは受取る側がどのように感じるかという事については、その人自身の問題です。けれども、どの人がどのように感じるか分からないサービス提供者側は、その人に自分のサービスなどがあるという事を気がついてもらうまでの間の情報提供、広告、サービス体系の構築に関しては無機質に準備をしておかなければならないのです。
それを準備している間は心ではなく、物理的にそれを用意していなければ話になりません。
だから、その準備期間に心を入れるとか、それ自体は自己満足の極みです。そして、そこで嬉しい、楽しいという心ならまだしも、大抵はネガティブになってしまうものです。
また、物事と物事が心で動いているという事は否定はしませんが、ある程度の部分は心というもので動いているけれども、ある程度の部分は、もっと無機質にそこに存在しているものの性質の違いによる摩擦や融合という事で成り立ちます。
それを感情ではなく、ただ、性質的にこの2つは、融合するだろう、摩擦を起こすだろうという事を見つめるという事が重要なのです。
感情の話ではなく、そのような視点を持つためには心を動かしてはなりません。
一切肩入れをしてはなりませんし、どちら良い、どちらが悪いという勘定や、自分の価値感から見たものではならないのです。あるひとつの集合的まとまりの意見と、それに対峙する意見について客観的に見て、その対峙する問題に関して水と油のように交わらないというものなのか、融合できるものなのかという事を外部的に考えるわけです。
それを可能とするための世界を構築する事が、今後のビジネスや世界を見つめていくためにとても重要な事なのです。
本年は、それをより意識して、もっと感情を動かさないで、その物事と物事の性質を見るという事の訓練をしていく時期だと感じます。
心を揺れていた方が暇はしないかもしれませんが、物事を成就させようとするとき、その成就までの過程では、心を動かさす、物事に意味をつけず、単純に毎日毎日同じ事を繰り返さなければならないという事があり、そちらの方がより豊かな人生を経験するためのバランス感覚を手に入れてることが出来るという事を実感をしているのです。
この世界を定義するもの
最近、ふとネット上のニュースを見ていて、素粒子物理学が素粒子は未来にも過去にも行く事が出来るという事が証明されました。
科学雑誌のネイチャーにも掲載されました。
非科学と言われていた事が科学的に正しいという事を証明したのです。
僕はスピリチュアルというのは実はあまり好みではありません。精神の世界という概念として語るのなら良いのですが、あまりにオカルトじみて、そして神様がと言うのは実はあまり良い印象を持っていません。
自分の家柄的に神主であろうと、別に神がそこにいると僕は教えられてきたわけではありません。そもそも天之御中主を祀っているので、その神という存在に実は実態がありません。天祖三神の中の宇宙神に当たるもので、実態がないのです。なので基本的に神様という存在を実態、実在として認識をしているという事は僕にはありませんでした。
概念上の人間の意識、認識を構成するものという認識をしていました。
でも、本当に元の元には何か物理的な動きがあるはずです。精神世界と表現をすると何も実態がないような印象を受けますが、けれども、そのような事がないはずです。
人間の思考が生まれるのは、何故か?と元を考えていけば、基本的に物理的な現象にぶち当たります。肉体があり、それが思考をする以上、そこには精神ではなく物理現象としての思考が存在するのです。
だから、精神をあまりに崇める人々の主張はちょっとどうかと今でも思っています。
今は分からないけれども、この現実世界に何かしらの物理的影響をもたらすわけですから、それはやはり科学的に証明が出来るものであると僕は感じているし、それが事実であるという事が最近科学的に証明されたと感じました。
先にも述べた素粒子が未来にも過去にも行けるという事です。
素粒子は観測をされると、それが固定化されます。観測されるまでは、そこに存在しているわけでもなく、存在していないわけでもありません。
これは宇宙が無から生まれたという事を解き明かすキーとなっています。
なぜ何もない無から、有が生まれたのか?という事です。すなわち観測をしたものがいて、それを認識したものがいたという事でこの宇宙が現れたという事です。考え出すとキリがないのですが、宇宙が創造されたのは、つまり観測者がいて、それを認識したものがいたから、宇宙が現れたという事です。
そして、現在私たちはこの物理世界にいるのですが、それは人間が認識し考えた結果固定化された世界がそこにあるのです。
宇宙はそもそも存在しないという考え方が生まれてくるキッカケとなるものでもありません。自分が認識をしているから、そこに固定化された現実が表れてくるという事になります。つまり、自分が考えているものがそこに表現されるという事です。
論理的な飛躍が大きくなる文章ですが、まあ大枠で言えばこういう事です。
で、つまり自分が考えた自分になるというのは、つまり自分というものを自分が認識し観測した結果現実として表れてくるという事であるという帰結を導く事が出来るのです。つまり可能性というのは認識であり、そのように認識をした以上、それは実現可能であるという事であるという事になるかと思います。
ただ、物理的に既に表象をされている世界の中では、それが届くのにタイムラグありますから、忍耐強く認識をし続けていないと我々人間の世界で目で見える形での変化は起らないという事です。
つまり何が言いたいのかというと、理屈で言えば人は自分が考えた通りの人になるという事が科学的に証明が出来るという事であるという事です。
という事で、本年何か自分が変わりたいと思うのであれば、変わった自分を認識していれば、自然とそれは現実に表象されるという事です。僕自身も、せっかくそれが科学的におぼろげであれ証明されたのですから、自分を自分で定義を与えてこの現実世界にそれが表象されるまで、自分自身という宇宙の認識を持っていようと思ったのです。
全身全霊で受け止めて
一般的に言えば、所得の高い人が住むマンションに現在は住めるようになりました。
そのマンションに住み始めて、そこに高齢者の方が多い事に気が付きました。皆さん品がよくてとっても腰が低くて目立たないようにしているような印象を受けます。
でもとっても上品紳士淑女の方が多いです。
決して高級品をずっと身にまとっているというような感じでもなく、本当にどこにでもいらっしゃる優しいそうな方々で大変に穏やかな人が多いです。
朝、エレベーターに乗って下に降りて自動販売機に缶コーヒーを買いにいくのが僕の日課です。
その際に同じ時間に規則正しく大抵同様の人に会います。
朝は犬の散歩に行く方と大抵エレベーターが一緒になります。
そこに、車いすの犬の散歩にいく方がいらっしゃいます。優しいそうな70代くらいの男性の方です。
その犬は後ろ脚が不自由なのですが、きゃふきゃふと優しそうなその男性と散歩に行くのがうれしそうに、「早く、早くと急かすのです」
「犬だって多分辛いというか、自分の後ろ足が動かない事は不自由な事だろう」と僕は思うのですが、そんな事は微塵も感じさせずその犬はきゃふきゃふと嬉しそうに、散歩に優しい飼い主のその男性と行けるという事を全身で喜んでいるように見えます。
卑屈になら、嬉しい事にはうれしい!!
遊びたいという事には前向きにそれに向かっていける犬がそこにいて優しい男性の飼い主と一緒に生きている。
だから、人間であるが故に悲観をして未来を嘆いてしまう事があるのですが、でもその一瞬、一瞬しか人は生きられません。
未来に向かって生きていくのですが、しかしながら、それは一瞬の積み重ねであるわけで、人は未来に生きる事も出来ませんし過去に生きる事もできず、いまこの瞬間にしか生きる事は出来ないのです。
だから、何が起きてもそれを受け止めて、それでも幸福であるという事を見つけなければならないし、自分がどのような状況であれうれしい事があれば嬉しいという物事の性質は変わらないはずなのに、それを受け入れる事が出来ないとか喜ぶ事が出来ないというのはなんて悲しい事でしょうか。
同様のマンションに住んでいる犬だって、自分の後ろ脚が動かなくなって、車いすを使ってまだ元気に動く前足を使って一生懸命に散歩にいくという喜びを感じで、そして全身全霊でカラダでその喜びを表現しているではないですか。
そう、何があっても、自分の喜びは変わらない。
その性質は変わらない。
だから、僕自身も、全身全霊で感じてみよと思ったするのです。
自分が自分に対する素直さを持ってそれを感じていければ、その朝に出会う犬のように何があっても嬉しとか、遊びたいとか全身全霊で自分の人生というものを受け入れて、それでも毎日の中のどこかに喜びと幸福を感じる事が出来ると思うのです。
それが大切な事なのではないかと感じるのです。
きっと、今日もその犬は、優しい暖かい男性の飼い主の方と楽しくお散歩をしてきたのでしょう。
エレベーターのドアが開いた瞬間にささっと走って、早くドアを開けてくれと言わんばかりにその優しそうな飼い主の男性をせかしていましたから。
2016年のスタート
昨年は実りあるものでしたでしょうか?
本年はどのような年にしたいと思いますか?
僕個人は昨年は昨年で自分としては頑張ってやってきたと思っています。
ただ、そこに満足をするのではなく、もっともっとやりたい事、喜びを見つける事というのも今年は大切にしたいと思っています。
今年はさらにプロフェッショナルになるための自分の仕事のあり方、生き方をしていけたらと思う次第です。
昨年の自分自身がよくやった・・・と思う成果としてはパソコンのキーボードの文字が毎日毎日マーケティンぐの仕事をしているし、サイト作成をしているので文字が消えてしまった事です。
1年でキーボードの文字が消えてしまうくらいにタイピングを朝から晩までやっていのたのかと自分でも、それには驚いています。それくらいに毎日毎日、飽きもせず、延々とマーケティングの仕事が出来たというのは、それだけマーケティングという仕事、若しくは自分が知っているマーケティングの技術に深みが出てきて面白さが出てきたのかもしれません。
少しばかり過剰にやる自分の性格ですから、正直なところ外にも出ず、延々とパソコンのキーボードをたたいているときに「これで良いのだろうか」なんて事があまたを過る事がないと言えばウソになりますが、けれども、この自分が行っているセクションで会社の収益を上げているわけですから、僕の仕事がこけるわけにはいきません。
また、自分も自信を失うのはたくさんなので、半ば意地にもなっているのかもしれませんが、偉大な広告マン、マーケターが遺した資料や、自伝、などを読むとまた自分もしっかりと仕事をしようと思うのです。
なので、マーケティングの分野、集客の分野でよりプロフェッショナルになるという事が自分にとっては大切な事になってきました。
僕はなんだかんだと言って、起業をして、そしてマーケティングを行い、友人と立ち上げた会社を大きくしてきました。
ベンチャーを立ち上げてマーケティングという集客の最前線で戦わなければなりませんでした。そして、それはありがたい事にうまく軌道にのり、そして、現在の自分へとつながっています。
自分だけで何かをしたと言いませんが、ただ少なくとも事業企画、マーケティングは間違いなく自分が行ったものですから、その点については自分が自分として行った仕事として最近自信が持てるようになってきました。
でも、マーケティングは、まだまだ3流です。
3流でも、ある程度は自分で独立起業をして一生懸命にやっているとそれ以上に稼げてしまうという事も、自分で体験をしてよく分りました。今度は一流となるためにマーケティングという仕事を自分できわめていきたいと感じるのです。
マーケティングは資格はいりません。以前は弁護士の資格が欲しかったのですが・・・その弁護士の仕事でさえもマーケターが実際に顧客を流すというルートを作っているという事を知ってからはすっかりと弁護士という職業としの魅力を僕は感じなくなりました。
学術としての法律学は好きですが、でも、職業としての法律学は今の僕には特段響くものはなくなってしまいました。
どの分野でプロフェッショナルとして自分に自信を持つのか?人々の生活、ビジネスのアキレス腱はどこなのか?と自分に問いかけたとき、それは集客、広告、なのだと心から感じたのです。
かなり疲れる仕事ですし、何をどのように伝えていけば良いのか?という事を考えて文章を作っていく。それを広告ベースにして具体的にしていくという事。また、それによってどのように人が反応をしてくれるのかという事のデーターの集積。
それを行っていく事は日々かなり地味なのですが、案外と大きな事業をしている人だって、毎日はすごく地味です。一生懸命資料を読んだり、人を説得したり、また広告を考えたりと、毎日毎日決して派手ではない事を積み重ねています。
ただ人前に出るときには今までの実績を人がほめてくれたりするので外に出た際に華やかに見えるだけでの事で、実は毎日毎日はその本人にとっては普通の毎日です。日々自分の設定した目標、目的を達成するために毎日毎日、人の目の見えないところで黙々と仕事をして地味に地味に毎日少しでもやっているわけです。
自分の時間はそう長いものではないという事を意識する年齢にも差し掛かりました。
それが実感として自分が理解してきたのです。
だから本年も精一杯、自分としてはよく頑張ったけれども、やはり少しばかり満足に足らないというくらいで上を上を目指していけたらと思います。
本年もパソコンのキーボードの文字が消えてしまうくらにマーケティングの技術・理論を具体的に実践をしながら成果を上げていく事をしてデーターの取り方も本年からより本格的に行い本年は自分自身のマーケティングプロフェッショナル元年としたいと思う次第でございます。
結局のところ、結果を出したい目の前の事を好きにならなくてはならない
マーケティングの手法というのは何をしていても同じなのですが、他のよりも抜きんでるためには
その物事を好きにならないと見逃してしまう事があります。
なのでマーケティングで扱っている事に対しては、それにある程度の愛着を持ってコンテンツを作成して
広告プランを扱わなければなりません。
本年はそれを大変に意識をして、いまそれが腑に落ちたという感じがします。
それをしっかりと胸に刻んで今後の指針にしていけたらと思います。
まだ少し早いですが、本年も皆さま大変お世話になりました。