Theory of everything ~ 未来に向かって時間が逆回りをするとき
「小野田君、時間とは何だと思うかね?私たちは未来に向かって生きているつもりになっているが、本当にそうなのだろうかね」と研究室の窓の外を見ながら僕にそう問うた。それは、僕に問いかけるというよりは、うわ言のようなそんな雰囲気の問い方であった。
「園枝先生、僕にその質問難しすぎます。学術的にはまだよく分からないのですから。それは先生のテーマでもあるではないですか。そして僕も、それを研究しているのですから」と僕は言った。
教授は窓の外を見つめたままだった。
窓際に立って外を見つめている先生の背中が小さく見えた。これまで、教授の背中がそんな風に見えた事は一度もなかった。いつも神々しく穏やかで、僕にとってはまるで神様のような存在が園枝教授なのだ。僕の知らない事を何でも知っている、そして力強く頼もしい父親のような存在である。
しかしながら、今日の先生の背中は小さく小さく見えた。まるで父親のように強く優しく逞しい園枝教授の背中がただの老人になってしまったように見えたのだ。いつもよりも、一回りも二回りも小さくなってしまったようなそんな気がした。
教授は、時間の概念について研究を続けていた。もう何十年もその研究に打ち込んでいるのだった。いくつもの論文を書き、それは、研究が進むにつれて内的矛盾を含む結果となり使い物にならなくなったものもいくつもあった。
学術的研究とは過去に出された概念と整合性がとれなければならない。だから研究が進むにつれて過去に通説とされていた理論の矛盾が指摘され修正され整合性が取れれば、新しい研究成果として、それが通説となり過去の通説は修正され先進の概念との連続性が整合性をとった形で形成されて体系になっていくのだ。
園枝先生が他の学者と異なる奇怪な研究をしているわけではなかった。「時間とは何か」という研究は、ずっと行われていたし、それをどのように捉えるかという事は多方面の学術分野から研究がなされている。けれども、まだ統一された学術的な成果はなく各研究者たちの独自の解釈のもとで行われていた。そしてまだ学会でも激しい議論が繰り返されていた。
しかし近年で、「どのように時間を捉えるか」という概念から多次元宇宙論、超ひも理論、などあらゆる方面からのアプローチがなされるようになってきたし、哲学者、論理学者、心理学者、数学者、物理学者それぞれの専門化たちが各領域を超えて解釈をするべきことで、全ての物事の根本的な原因が同一のものであるという事を意識しはじめているのだ。だから時間を扱う学者は専門領域と言われる分野を飛び越えていくことになるのだった。
心理学者は認識という限られた人間の認識というフィルターを通して見える世界から抜け出し、私たちが見えている物事というのは結局のところ脳の処理によるものであるという事を否定する事は全く不可能であるわけであるから、心理学者は心理の形成のプロセスに目をやるようになる。すると、生理機能、脳機能学、脳科学の分野まで必然的に必要になってくるのであった。
だから近年ではより、学術的な専門領域というのは垣根が無くなってきている。結局のところ根本的な発生原因を突き詰めていくと、同じところにたどり着く事になるからだ。しかしながら、よくよく考えてみればそれは分かりきった事であった。科学とか学術分野の領域などの問題などではなく、誰もが知っているではないか。宇宙というものからはじまり分裂し私たちはその派生として存在している小さな存在なのである。はじまりは全てが同じ所から来ているのであるから、全てを説明する事の出来る根本原因がそこに存在している事など本当は当たり前の事なのだ。ただ、論理的に考えれば、それは否定する余地もない事ではないか。論理学を専攻していなくとも分かりきったことであるのに何故か人間はそれを忘れてしまっていたのだ。
はじまりは全て同じところからはじまっているのだ。あとは理論的整合性の問題を見つけるだけなのだ。
園枝教授は、窓の外を見つめたまま穏やかな口調でまるでひとり事のように語りだした。
「私はこれまで時間は存在しているのか?それは人間の意識だけの問題であるのか、それとも時間というそのものが存在しているのか?という事を研究してきた。研究が進むにつれて、学術領域に垣根が無くなってきた。私も既に何の専門家であるのか、私自身にも分からなくなるほどだよ。ただね、私は研究が進むほどに進化をしているのだと思い込んでいたが、結局物事は全てはじまりの原理原則を解き明かす方向に進んでいくのだよ。私は、それを進化だとは思えないのだ。革新だとは到底思えないと最近感じたんだよ。まるで時計が逆回りをしているかのようにね。全ては一つの同じ方向に向かうようになってくる。しかし、それは当たり前だと・・・そう思ったとき私はもう興味を失ってしまったんだ。説明をしようとか知的好奇心とか、そういう事ではないんだ。分かってしまったのだ。全ての発生原因は同じところから発生したというあたり前の事に、私はこの年齢になるまで気がつかなかった。私は統一理論などと研究をしなくとも、それはあると分かりきったことではないか。統一理論はあるのだよ。根源の発生原因は全てが同じところからはじまっているのだから・・・」と教授は窓の外を見ながら言った。
僕はゆっくりと語る教授の言葉を静かに黙って聞いていた。そして教授の背中が小さく見えた理由が、僕は分かった気がした。そう・・・落胆してしまったのだ。
ただ、そういう事だ。落胆と興味の喪失。いや、それよりも、園枝教授にとって疑問が解けてしまったというそれだけのことなのかもしれない。納得のいく解を得られたから、安堵してしまったのかもしれない。
多分、学者としての園枝教授は、もうやるべき事を全て終えてしまったのだろう、と僕はそう思った。論文を何本も出す事が目的ではなかった。賞賛されることが目的ではなく、それはあくまでも知的好奇心からの事であって、園枝教授は自分の持っている疑問にひたすら向き合ってきたのだが、それがある日突然自分の中で解を得てしまった。それを超越するほどのものは、もう残っていないのだろう。
園枝先生は解を得てしまったのだ。そして、そこにあったのが落胆だったのだ。だから背中が小さく小さく見えたのだろう。僕はそんな気がした。
それは、穏やかな日の、なんの変哲もない日の出来事で、世界はいつも通り動いていた。時間は進んでいた。でも確実に根源に向かって、まるで過去に遡るかのように、それを進歩だと勘違いしながら研究者は整合性をとった万物の理論の感性に向けて研究を続けている、いつもと変わらぬ穏やかな日だった。
頂上をひたすら目指すことが生きる過程そのものだとしたら。
「これで完成」だとおごった瞬間に成長は歩みを止め、頂上に上り詰めた瞬間に、下降の一途を辿るしかない。
では、いったい人生とは苦しみ続けるためにのみ有るのか?
そういう新たな疑問が沸き起こりますね。
平和を勝ち取った瞬間から革命家たちは用無しで、飽和した瞬間から怠惰と倦怠がはこびる。
問題がなくなったら国は立ち行かないし、犯罪者がいなくなったら警察は要らない。
永遠という概念は。ヒトが生きるために必要な‘悪’の存在を示しているのかも知れないですね。
何かに人生を賭けることはある意味恐ろしいことかも知れません。
それを成し遂げたとき、ヒトは人きる意味を見失いかねないから。
だから、いつでも、どこでも、新たな目標を見つけられる程度の、そんな人生が楽なのかも知れませんね。
等と、感じました。
お返事が大変遅くなってしまいまして誠に申し訳ありません。。。
> 追い続け、焦がれ続け、求め続けることが人生だとしたら。
> 頂上をひたすら目指すことが生きる過程そのものだとしたら。
> 「これで完成」だとおごった瞬間に成長は歩みを止め、頂上に上り詰めた瞬間に、
> 下降の一途を辿るしかない。
そうですね。人間的な成長は多分そうですね。
人間にはそこまで情熱を燃やし続けるほどのエネルギーは実は
ないのではないかと思います。
だから若い力を必要とするようなそんな気がします。
今度は、教える事に喜びを見つけることで下降せずに
いられるのではないかと思うのです。
> では、いったい人生とは苦しみ続けるためにのみ有るのか?
> そういう新たな疑問が沸き起こりますね。
そうですね。苦しみ続ける・・・僕が思うにですけれども
苦しい事は、どんどんとキレイな記憶に変わっていきます。
きっと思い出したときに、「辛かったけれども楽しかった」
と言える事が幸福なのかもしれません。
> 平和を勝ち取った瞬間から革命家たちは用無しで、飽和した瞬間から怠惰と倦怠がはこびる。
> 問題がなくなったら国は立ち行かないし、犯罪者がいなくなったら警察は要らない。
> 永遠という概念は。ヒトが生きるために必要な‘悪’の存在を示しているのかも知れないですね。
本当にその通りですね。平和を勝ち取った瞬間に革命家など
いらなくなりますね。悪が無くなれば警察もいりません。
そんな世界も味気のないものだと思うのは、きっと本質的には
戦うという事が生命の中にあるからなのでしょうね。
> 何かに人生を賭けることはある意味恐ろしいことかも知れません。
> それを成し遂げたとき、ヒトは人きる意味を見失いかねないから。
> だから、いつでも、どこでも、新たな目標を見つけられる程度の、
> そんな人生が楽なのかも知れませんね。
僕も仰られる通りだと思います。でも、人間って不思議なもので
得る事が出来れば、それ以上のものが欲しくなるんですよね。
ただ、あるふとした瞬間に気がつくんです。
これが何になると言うのだろうか???と。
そんな事を繰り返しながら、僅かながらの幸福を感じるために
何かをしているような、そんな気がしてなりません。
朱鷺さんご訪問にコメントを誠にありがとうございます☆☆☆
また、遊びに来てください☆☆☆
楽しみにお待ち致しております☆☆☆