感情論が支配する司法は恐怖のはじまり
けれども、とても重要な事だと僕は認識しており、過去に幾度も
記事にしています。
「感情論だけで動く怖さ」の事です。
第三者という目線を忘れてはいけないという事です。
光市母子殺害事件のことで司法の中でも何かが変わり
ました。
法律に感情論を入れて、一般的に多分可哀想であろう
という側を感情論で保護というか、守ろうとする動きが一般的に
なってきたと思います。
その傾向がこの事件を契機により強くなっている気がします。
社会政策を感情論が支配するというのは恐ろしいことです。
それは過去が物語っているではありませんか。歴史が物語っている
ではありませんか。
戦争だって感情論でした。
「一応皆がそう言っているから、戦争が正しいのだ」と突き進んで
きた結果が、敗戦ではないですか。
それと同じ論理構造をしているという事を認識しなければなりません。
確かに光市母子殺害事件は悲惨な事件であったのは間違いない
ですし、被害者の方の心情を察すること、とても辛い想いであった
ことは間違いないのは想像は出来ます。
しかしながら、例えば光市母子殺害事件で一般的に少年側を
擁護する事が「悪である」といっせいに叩くという構造。これは
まさしく戦争に向かっていったときの日本と全く同じ理論構造です。
司法が感情論によって支配されるとしたら、何のために規範として
それがあるのか?その事をよくよく考えてみて下さい。
あくまでも第三者に委ね、決められた範囲で安定した法の実現が
司法の機能です。そこに、あまりに多くの感情論を入れてしまったら、
既に法律としての機能は果たせなくなってしまいます。
いま、国民が感情論を入れる事を「良し」として動かすという事は
今後、この国の司法を司る職についた人々が感情によって可哀想か
そうではないか?という事によって何かを決めるという事にもなりかね
ないのです。
光市母子殺害事件は間違いなく、凄惨な事件であったと思います。
でも、現在の議論は未来の法的安定を害するものであると少なくとも
法律というものを学んだ僕にとっては危惧感を持つのです。
僕はこの事件が持ったインパクトは法政策、法律分野に於いては
最悪のものを社会に植えつけてしまったと思っています。
今後の法的安定という面について考えるとき、この事件がのこしたもの
は発展性のあるものではなく、後のまた問題を引き起こすものになって
しまったということ、そして過去の失敗と同じ構成の論理構造になって
いるという事。
この事件のインパクトが数年後の近い未来に於いて、法的安定性を
害さないものである事を切望します。
感情を持ち込むと云うより、
父性的な制度である司法が、
母性的なものに偏向している、支配されていると見ています。
今、日本中がそう、
皇室の女性宮家などの流れも象徴的です。
その前に、男子皇族が生まれないという状況が、もう女系的ですけれど、、、、、
人間ですから感情は捨てられません。いかに公正な目で判断するかが重要になってきますが、そのための規範がないことが問題かもしれませんね。
そうですね、仰られるとおりです。母性的なものに偏向していて
また、個人だけに向けられる感情に支配されています。
もともと地域社会が担うべきであった責任を全て司法で
解決しようというような感じも受けます。
よく司法の限界と言われていますが、司法の限界ではなく
これは地域社会が埋めていかなければならない事である
はずであると僕は思っています。
子育ても以前は地域全体で行っていたという時代が
あります。その時代には、その地域問題を多かれ少なかれ
地域社会がクッションの役割をして支えていました。
今はそれがない分、余計に司法に個人的感情が
持ち込まれてしまいます。司法の限界などではなく
過去の不安定な法政策の歴史を鑑みて、このように
厳格になってきたというのに、まるで法が悪いかの
ように言われる昨今の状況を僕は大変に危惧して
おります。
根源にはCosmosさんが学ばれている女性と男性の
本質的な性質の問題もありそうです。
Cosmosさん、ご訪問にコメント誠にありがとうございます☆☆☆
また、遊びに来てください☆☆☆
楽しみにお待ち致しております☆☆☆
そうですね。一応日本でも判例は拘束力を持っています。
似通った事件に関しては後の裁判の判決に対する拘束力は強いです。
判例は後の規範、基準ともなります。
仰るとおり人間であるから感情を捨てられないからこそ
第三者の存在がとても重要になるのです。
感情移入しては制度的な安定性を欠く事になってしまいます。
一応規範は法が存在しているのですが、それを今回は司法の限界
などと表現したことが僕は問題であると考えています。
難しい問題です(;・∀・)
美雨さん、貴重なご意見にコメントを誠にありがとうございます☆☆☆
また、遊びに来てください☆☆☆
楽しみにお待ち致しております☆☆☆
法律と言うのは都心部でも過疎地でも、その土地の固有の習慣がどうであろうとも同じように運用されなくてはまずですよね。ある意味機械的に。で、平等に運用した結果「やっぱりそれはこ場合実情に合わないよ」などということになったら、それは行政など別の方法で微調整してもらわないと…、と思います。
僕も全面的にOscarさんと同じ意見を持っております。
本当に頂いたコメントの通りでございます。
第三者と言われる人々が、他人だからこそ出来る判断を失ってしまっては
やはりいけないのだと感じます。
もし、この事件で被害者が、もっとも冷静にある意味他人事のように
国の法政策というものを考え、「私は死刑は妥当でないと思う」と言ったら
どうだったのでしょうか?その辺りが気になります。
被害者感情というのを考えるという事はあくまでも、
第三者の勝手な予想に過ぎません。やはり厳格に言えば、
それは被害者感情を考えて可哀想だと思うという、勝手な
想像の域を超えられないのですよね。。。
この問題は法政策、人権の歴史、法律というものの沿革
制度趣旨、社会政策、地域社会政策など様々な観点から
言及が出来ますので、語りきれませんが、僕はOscarさん
と同じ意見を持っております。
Oscarさん、貴重なご意見を誠にありがとうございます☆☆☆
また、遊びに来てください☆☆☆
楽しみにお待ち致しております☆☆☆
感情ばかりで動くことの懸念については同意ですが。