EYES
漫画喫茶の日以来、少女のことを考えない日はなかった。
いつも、少女の事を考えていた。
全てを一人で抱え、義務ではない義務から逃げられないでいる
あの少女のことを考えない日なんて一度もなかった。
今、あの少女は何をしているのだろうか。
煙草はすっかり燃えてしまっていて、フィルターが焦げていた。
僕は図書館の喫煙室から出て自動販売機で缶コーヒーを買った。
勉強は一向にはかどっていなかった。判例の文字の羅列がただの
記号のように見えるだけだった。僕は何をやっているのだろうか。
しっかり勉強しなくてはならないのにも関わらず、集中できなかった。
それだけ少女のことが気がかりで仕方なかったのだ。
僕は分厚い六法を閉じて、勉強の用具をバックにしまって
図書館を後にした。まだ午後14時だった。一時間も勉強できなかった。
少女の携帯の番号は知っているが、その電話をかけられないで
いるのも事実だった。僕が何を出来るというのかわからなかったか
らだ。高校生の恋のように、「傍に居るから」と言って何もかもが
解決されるほど簡単な問題ではないのだ。
しかし、僕は少女の携帯に電話をしないといけないと思った。
少女と会って、まずは曲がっている義務感から開放するために
話し合わないといけないと思ったのだ。
僕は携帯電話のアドレス帳から少女の番号をだして電話した。
一回、二回とコール音が虚しく僕に聞こえてくる。しかし何度
コールをしたか分からないほどになっても少女は僕の電話には
出なかった。
少女も夏休みのはずだ。絶対に携帯をもってどこかにいるんだ。
しばらく時間が過ぎてから、もう一度電話しようと思った。
つづく
EYES
君は十分に良くやったし、君が悪いわけではないんだ。
もう泣かなくていいんだ。
僕はその場で、人の目も気にせずに、目の前に居る少女を
抱きしめた。彼女は何もかも一人で抱え込みすぎていた。
何もかもだ。
少女は16歳だった。母親の再婚で義理の父親と暮らすようになって
半年が過ぎた頃、母親と義理の父親との関係は冷え切っていた。
その頃から彼女は階段を上ってくる父親の足音に怯えるように
なったのだ。
母親は自分の義務を放棄して、全てを娘に押し付けたのだ。
酷い話ではないか。彼女がどうして母親の役割を引き受けねば
ならないのだろうか。そんな事はあってはならないことなのだ。
しかし、現実の世界というのは想像を超えて遥かにえげつないもの
なのかも知れない。僕が生ぬるい幸福すぎる毎日に埋没して生きて
いただけだったのかもしれない。
少女は16歳だというのに堕胎を2回も経験している。
世間体を気にした義理の父親が有無を言わさず無理やりに
そうさせたのだった。16歳だというのに彼女の体はボロボロに
なっていた。
無力な僕というのはここにいた。何も出来ないのだ。
少女に対して何が出来るのだろうか。僕の想像を超えた出来事に
今までの司法試験の学習の知識は力を持たなかった。
僕が考えていたより法律というのは無力なものだったのだ。
だからと言って、それを放っておくわけにはいかない。僕は
出来る限りのことをしてあげたいと思った。
もう、少女の瞳は16歳という少女のそれではなくなっていた。
光を失い、明日を見つめる気力さえなくなっていた。ただ、何も
出来ない毎日に押し潰されていた。そして背負い込まなくても良い
義務感だけが少女をこの世界に繋ぎとめているのだった。
その日、僕は少女と共に過ごした。
何をするでもなく、二人で漫画喫茶に入り朝まで一緒に居た。
少女は漫画を読み続け、ドリンクバーで何杯もコーラを飲んだ。
僕は漫画を見つめる少女の横顔を時折見つめては、カラッポの
視線の先に何を見ているのか考えてしまった。少女の瞳に漫画
が映っていても、それは少女の中には届いていないように見えた。
その日、大学は休みだった。長い夏休みに入っていたのだ。
漫画喫茶から出ると、僕と少女はまだ眠っている町をふらふらと
当てもなく歩いた。
「今日の予定は何かあるの」僕は少女の横顔を見ながら言った。
「御飯作らなくちゃ。義父の朝ごはん」
どうして彼女がそんなことしなくてはならないのだ。僕のはらわた
は煮えくり返りそうになった。そんなものは母親の仕事だ。
「どうして君が作るの。お母さんのやることじゃないか」
「母さんは、体を壊してしまって・・・部屋から殆ど出てこないの」
「だから、君が全てをやるの」僕は納得がいかなかった。少女に
なんでこんな義務があるというのだ。あるはずのない異常な状態に
少女は義務を感じているのだ。
「だって家族だから」
「そんなの家族じゃない」
「そんなこと言わないでよ、大切な母さんなの」少女は強く言った。
その後、僕たちは何も喋らなかった。
この先、僕は少女とどのように関わっていけばいいのか
分からなかった。けれども、僕は少女を放っておくつもりはなかった。
理不尽な義務感から開放して自由にさせたかった。
僕には、この世界にそんな現実があることが許せなかったのだ。
少女への感情が偽善と言われたら、偽善かもしれない。でも、偽善でも
人は助けられる。
しかし、今の僕には打つ手が思いつかなかった。
次回へ、つづく